第16回 鈴木健夫 – ペルー伝統の味を守り続ける日本人シェフ 後編

1986年、ふたたびペルーの地を踏んだ鈴木さんは、リマ旧市街の5ツ星ホテル「Hotel Crillon(ホテル・クリヨン)」の門を叩いた。「無給でいいから、ペルー料理を勉強させてくれ」という鈴木さんに対し、ホテル側は「無給だが、滞在先としてホテルの一室を与えよう」という粋な計らいで応えてくれた。

ホテルの客室に寝泊まりし、上級職員用の社員食堂で朝食を食べ、そのまま調理場へ出勤する毎日。「同僚と飲みに行く時は、全部奢らされたけどね。スタッフは地方出身者が多かったから、彼らの郷土料理の話も聞けたし、それはそれでよかったよ」金銭に対しては無頓着だが、自分の欲求に対してはとことんまで貪欲な鈴木さんだった。

プカラのクイ料理

ホテル・クリヨンでの生活が数か月続いたころ、「どうせなら、自分で店を出したら?」という話が持ち上がった。自分の店を持つことは、どの料理人もが見る夢。開業資金を稼ぐため鈴木さんは北米へと渡り、ニューヨークの和食レストランでがむしゃらに働いた。

半年で1万ドルを貯め、日本の貯金もかき集めて意気揚々とペルーへ凱旋したものの、さまざまな事情が重なりリマの出店計画は頓挫してしまう。しかし、落胆する鈴木さんをペルー料理の神様は見捨てなかった。

~リマがダメなら、クスコはどう?あそこなら日本人旅行者も多いし~

その友人の言葉に、目の前の霧がぱっと晴れた。そうだ、クスコに行こう!鈴木さんはすぐに動いた。幸運なことに、街の中心であるアルマス広場のすぐそばに店舗を借りることができ、そこで念願のペルー料理店を開いた。1988年12月24日、ペルー料理店「プカラ」の誕生である。

レストラン・プカラ(旧)店内

木のぬくもりを感じさせる、落ち着いた雰囲気の「プカラ」。バーカウンターは鈴木さんの手作り、椅子やテーブルはボロボロだったものを友人たちと一緒に修理した。

オープンから28年、プカラのメニューは当時からほとんど変わっていない。時代に合わせて追加したものはあるが、取りやめた料理は1つもないそうだ。それは流行に左右されない伝統料理だからこそ、時代におもねらない正統派の味を提供しているからこそできることだ。

創作料理も魅力的だが、よほどのものでない限り徐々に飽きられ、そのうち記憶からも消えていく。鈴木さんの料理へのこだわりは、現代の消費社会への警鐘のようにも聞こえてくる。

根っから職人気質の鈴木さんは、料理だけでなく、気になったことは自分が納得するまでとことん追求する人だ。クスコの家具屋に頼んでもちゃんとしたものができないからと、店内の椅子やテーブルはもとより、毎日厨房で活躍するオーブンや冷蔵庫まで自作してしまうツワモノである。

今でも時間があればクスコのがらくた市へ赴き、リサイクルできそうなものを仕入れてくる。どんなに古びていても、本当にいいモノならその価値は失われない。本質を見抜く眼、それが鈴木健夫の才能なのだろう。

鈴木健夫氏とお気に入りのソファー

クスコの骨董市で見つけたという椅子に座る鈴木さん。「今じゃ、こんな風に木をカーブさせて作ったひじ掛けは珍しいんだよ」と愛おしそうに説明してくれた。

「以前はね、『日本人のボクがなぜペルーでペルーの伝統料理を?』って思ったこともあったんだよね。そんなのはペルー人が作ればいいことだし、ボクは日本で本物のペルー料理を作りたかった」

「でも日本にもいるだろう?外国人なのに日本の文化をこよなく愛していて、日本人よりもっと日本人らしく生きている人が。ボクも同じだなって思ったんだ。その国の良さを再発見できるのって、実は外国人なんだよ。だからね、日本人のボクだからこそできる、本当のペルー料理があると信じてるんだ」

「この1~2年以内に、もう一店オープンしたいんだよね」と夢を語る鈴木さん。そんな彼を眺めていたら、ふとそばで誰かが微笑んだような気がした。あれはきっとペルー料理の神様に違いない。

(終)

※この投稿は、海外在住メディア広場のコラム「地球はとっても丸い」に2017年5月21日付で掲載された記事を再構成したものです。文中の日時や登場人物等が現在とは異なる場合がありますのでご了承下さい。