第14回 鈴木健夫 – ペルー伝統の味を守り続ける日本人シェフ 前編

ペルーの古都クスコにあるペルー料理店「プカラ」。創業28年、日本の旅行ガイドブックでもおなじみの老舗レストランだ。この店のオーナーシェフは、横浜出身の鈴木健夫さん(67歳)。職人肌の鈴木さんが作る正統派のペルー料理は何度食べても飽きることがなく、旅行者のみならず地元の人にも長く愛されている。

鈴木健夫シェフ

Calle Plateros 309にあるレストラン「プカラ」のオーナーシェフ、鈴木健夫さん。レストランの入れ替わりが
激しいクスコ中心部にあって、一人のシェフが同じ場所でこれほど長く営業し続けているレストランは他に類を見ない。

鈴木さんと料理との出会いは、バンケットスタッフとしてのアルバイト時代。彼が学生だった1960年代の日本は、まさに高度成長期の真っただ中。市内のホテルや横浜港に寄港する豪華クルーズ船では、さまざまなパーティーが頻繁に催されていたという。

そんなある日、鈴木さんはノルウェー商船のパーティーに派遣された。ボーイとして入ったものの、あまりの忙しさに調理場の手伝いまでさせられ、その時初めて「調理って面白い」と思ったという。このことが、鈴木さんの将来を決めるきっかけになった。

専門学校を中退した鈴木さんは、国際線航空会社へ機内食を提供する会社に就職し、そこでフランス料理を学んだ。飛行機に乗ること自体がまだまだ贅沢だった当時の機内食は、現在のものとは比べ物にならないほど豪華だったという。鈴木さんが配属されたファーストクラス向けの部署には、とりわけ世界各国の高級珍味が集まっていた。

「どの航空会社も国の威信がかかっているから、『これを使うように』って、お国自慢の高級食材を送ってくるんだ。フォアグラやキャビア、トリュフ、生ハム、チーズ。シャンパンやワインだって、日本では手に入らない名品ばかりだった。あんなに凄いものを試食したら、もう巷の洋食専門店なんて子供だましにしか思えなかったね」

調理技術だけでなく、世界の味をその舌で学ぶ機会に恵まれた鈴木さんは、いつしか海の向こうに想いを馳せるようになっていった。「外国の料理を作るなら、その国で学ぶべき」と思ったのだ。ちょうど海外で料理修業する料理人がちらほら出始めていた時代。鈴木さんも自分の求める“何か”があるはずと、世界の料理にアンテナを張っていた。

1940年創業のキンタ・レストラン(伝統的な郷土料理を、生演奏とともに提供する店)、「Rosita Rios(ロシータ・リオス)」。鈴木さんの人生を大きく変えたこの一枚は、日本を代表する写真家、田沼武能氏の作品だ。

1977年6月のある日、同僚が一冊の雑誌を持ってきた。前年に出版された文藝春秋デラックスの「美味探求:世界の味 日本の味」だ。何気なく表紙をめくった鈴木さんの手が、最初のページで止まった。

どこかの国の、どこかのレストランでの食事風景。テーブルに置かれた見知らぬ料理を、あれこれとシェアしつつ食べる中年客。客の合間を縫うように立つ2人のギター弾きが、何やら楽しそうにメロディを奏でている。店内の活気や人々のざわめきとともに、人々の食べることへのただならぬ集中力を感じさせる一枚だ。

本文にはこう記されていた。「ペルーの人々は“アメリカ大陸で一番美食家なのは自分らだ”と自慢する。なるほど、民族レストランの食事は、オードブルだけでも7種類もある。酢魚のセビーチェ。骨付き豚のから揚げ……」このページを見た瞬間、鈴木さんは稲妻に打たれたようなショックを受けた。「これだ!俺は一生これをやっていく!」

機内食調理は、客の顔が見えない仕事だ。その上ほとんどが手付かずで戻ってくる。「一生懸命作っても、そのほとんどがそのままゴミ箱行きなんだよね。食べてもらえない料理を作るのは嫌だなって、思ったんだよね」そんな彼だからこそ、人々が食べることを心から喜んでいる姿に、一瞬で魅了されてしまったのだ。

彼らをこんなにも夢中にさせるペルーの料理とは、一体どんなものだろう。ペルー料理を知りたい、研究したい。鈴木さんはいてもたっても居られなくなり、早速情報収集を始めた。

ペルー料理

先ずは渋谷の駐日ペルー大使館へと向かったが、何の情報も得ることができなかった。途方に暮れフラフラと歩いていった先で、日系ペルー人の経営する旅行代理店を偶然見つけた。ペルー人を伴侶に持つという日本人スタッフに話をすると、「じゃあ、私の妻に料理の話を聞いてみたら?」と、翌日一席設けてくれた。

その席で、一時帰国中だというペルー在住の日本人を紹介される。リマでペンションとレストランを経営しているというその人物は、「だったら、うちのペンションで管理人をやりながら、ペルー料理を学べばいいじゃないか」と鈴木さんに声をかけてくれた。ペルーでペルー料理を学べる!このチャンスを逃すものかと、鈴木さんはすぐさま両親を説得。上司にも熱意を告げ、会社を退職することにした。

当時は景気が良く、人の心にも余裕があったのだろう。そんな破天荒なチャレンジに挑む同僚をみなが応援し、快く送別会を開いてくれたそうだ。あの衝撃を受けてからわずか1か月後の7月に、鈴木さんはペルーへと渡った。27歳の時だった。

※この投稿は、海外在住メディア広場のコラム「地球はとっても丸い」に2017年3月2日付で掲載された記事を再構成したものです。文中の日時や登場人物等が現在とは異なる場合がありますのでご了承下さい。