第1回 失ってしまった何かを求めて

リマにはペルーに暮らす日系人高齢者たちが集まるデイケアセンターがある。そこに参加するお年寄りは若くて75歳から、上は100歳を超す人もいるだろうか。60代の日系三世が中心のボランティア・スタッフに支えられ、日本の懐かしいメロディーを歌ったりゲートボールに興じるなど、長き人生の終盤を多くの同胞たちとともに穏やかに過ごしている。

私は以前、この施設でボランティアをしていたことがある。生活上スペイン語に不自由はしていないが、日本語での会話を欲する一世が少なからずいるという理由からだった。来秘直後でペルーのことは右も左も分からなかったが、「日本人なら(誰でも)いいのよ」と知人に言われ、軽い気持ちで引きうけた。それがペルー日系社会と私の最初の接点だった。

初めてボランティアに参加した時の驚きと戸惑いは今でもよく覚えている。古風な日本語でゆっくり丁寧に話してくれたおじいちゃん。「日本生まれの日本人」というだけで、私の手をぎゅっと握って離さなかったおばあちゃん。時折「天長節」や「教育勅語」といった耳慣れない言葉が聞こえて来たり、歌の時間には必ず軍歌をリクエストする人もいたりしたけれど、あちこちで古き良き“日本”を垣間見ることができた。

もちろん彼らに政治的な意図はあろうはずもなく、ただ日本人であることだけを誰もが誇りに思っていた。授業では決して教えられることのなかった日本の小さな欠片が、ここリマには残っていた。

ペルーの日本人移民

私はここでいろんなことを教えてもらった。ペルーが南米初の日本人入植地であることや、その歴史が1899年に始まったこと。過酷な労働の末に多くの移民が亡くなったこと。日系人の社会的成功への妬みや誤解から生じた排日運動、第二次世界大戦の開戦と同時に行われた日系人の資財没収と北米収容所への強制移送、そして敗戦後の勝ち組と負け組についてなど。

地球の裏側にあるもう一つの日本の、100年を越す長い長い歴史。敗戦下の混乱で困窮する日本にペルーやブラジルの日系人たちが大量の支援物資を送ってくれたことなど、日本に生まれ育った者として当然知っておくべき歴史をここに来て初めて知らされた。私が「知らなかった」と答えた時の、おじいちゃんのあの寂しそうな笑顔が忘れられない。

さまざまな歴史を背負う彼らから学ぶべきことは多い。時には時代錯誤のように思える言葉も、彼らの口から語られるとそこには新しい価値が生まれる。「努力」や「勤勉」「忍耐」「団結」といった日本ではもはや廃れ始めている単語が、重く静かに心に迫ってくる。そんな彼らの生きざまに触れていると、今の日本人が失ってしまった何かが見えてくるような気がするのだ。

この一年はペルーの日系人を追いかけてみようと思う。

※この投稿は、海外在住メディア広場のコラム「地球はとっても丸い」に2013年1月18日付で掲載された記事を再構成したものです。文中の日時や登場人物等が現在とは異なる場合がありますのでご了承下さい。