第4回 ペルー人として生きる

前回登場して頂いたカトウ神父に「古い二世のお話を伺いたい」と相談したところ、日系社会の重鎮、ヘラルド・マルイ・タカヤマさんを紹介してくれた。広島出身の父と福岡出身の母を持つ日系二世で、今年84歳。マルイさんは旧リマ日本人学校同窓会室で、さまざまな思い出を語ってくれた。

マルイさんのプロフィールはとても華やかだ。父親の影響で幼少のころから野球に親しみ、戦後はアマチュア野球の代表選手として国内外の大会に出場。1987年から2年間ペルー教育省スポーツ庁長官の任に就き、現在は野球連盟会長として後進の育成に努めている。また日系社会では、ペルー日系人協会第三代会長、ペルー移住90周年・100周年両記念式典実行委員長、並びに100周年記念病院建設委員長として活躍した。

今も日系協会顧問として主なイベントには必ず出席し、司会も担当する。聴衆を惹きつけ盛り上げていく司会の技は、まさに天職。「私たち二世は(日本人ではなく)ペルー人ですよ」と言うご本人、確かにラテン的な軽快さに溢れた人柄である。

「例えば何か行事を行う時、寄付で足りない分を一世は自分たちの懐から工面しました。でも二世はもっとオープンです。寄付で間に合わなければ、何かのイベントを通じて収益を上げることを考える。みんなで一緒にやるんです。“integración(一体化)”が大切なんですよ」「一世は(敗戦の経験から)目立たない、出しゃばらないことがモットーになっていました。だから私が野球連盟の会長に就任した時も、一世からは『そんな目立つ職に就くのはやめておけ』と言われましたね」

紀宮内親王殿下 お手植えの松

「移住100周年記念祝賀式典のため紀宮さまがペルーに来られた時、当時の大使からこう注意されたんです。『念のために言っておくが、間違っても紀宮さまにベソ(挨拶として普通に行われる頬への接吻)なんかするなよ』ってね。おかしいでしょう?ペルーでは大統領夫人にだってベソしますよ!それがペルーのマナーだし、私はペルー人です。なのにダメと言われてねぇ……。結局、写真も撮れなかったし、握手しかさせてもらえなかった。あれは残念だったなぁ」

戦前の日本人移民はペルーを出稼ぎの場と捉え、心は遠い故郷に残したままだった。勤労と持ち前の堅実さで商いを成功させても、その利益の多くは日本へ送金し、日本から呼び寄せた家族や親族だけで店を切り盛りしていた。そんな日本人移民はペルー人にとって、自国の発展になんら寄与せず、あまつさえ自分たちの労働環境を脅かす不逞の輩と見られていた。こうした日本人に対する反感がいつしか憎悪となり、極端な差別や排日暴動へと発展していく。

激動の時代を自ら体験してきたマルイさんは、子供の頃の思い出をこう語る。「日本人小学校を卒業後、現地の中学に入ったんです。でもこっちは坊主頭に半ズボンでしょう。周りから随分笑われてね。恥ずかしかったなぁ」 少年時代に幾度となく経験した屈辱が、日系二世のマルイさんにペルー人として生きる道を選択させたのかも知れない。

苦労を重ね、ペルー日系社会で確固たる地位を築いてきたマルイさん。今、一世と二世の違いを最も理解している日系人の一人と言えるだろう。「一世を尊敬しているし、感謝もしています。でも考え方は違う。私たち(二世)はペルー人ですからね」 繰り返されるその言葉に、両国の懸け橋となり歴史を紡いできた日系二世たちの功績を改めて実感した。

インタビューを終えて別れる時、頬にベソをしてくれたマルイさん。「あなたは日本人だけど、もうペルーに長いからペルー式で大丈夫だね」。なんともお茶目な人である。

※この投稿は、海外在住メディア広場のコラム「地球はとっても丸い」に2013年7月22日付で掲載された記事を再構成したものです。文中の日時や登場人物等が現在とは異なる場合がありますのでご了承下さい。