第7回 藤井永里子 – 直感が導いた人生 前編

リマ市ヘスス・マリア区の一等地で、ビンゴホールとレストランの経営に携わる藤井永里子さん(65歳)。お料理上手で巷に知られる彼女だが、もともとは織物を教えるために来秘したそうだ。

銀閣寺

京友禅の意匠を手掛ける家庭に育った永里子さんは、織物の恩師が作ったという腰機(こしばた/ペルーのインディヘナが使う素朴な織り機)を10台抱え、「ペルーの人に、ペルー伝統の織り機を使った織物を教えたい」と、1980年10月にはるばる日本からやって来た。当時29歳だった永里子さんは、同区にある日秘文化会館で織物教室の講師を務めるかたわら、国内外を旅行するなど、ペルー滞在を大いに楽しんだそうだ。

そのリマで知り合ったのが、夫の隆彦さんだ。アンデスの街ワンカヨに住む叔母を頼り、20歳で海を渡った隆彦さんは、ワンカヨで叔母の家業を手伝ったり、自動車販売代理店を営んだのちリマに移り、知人と共に民芸品の輸出販売を行っていた。その隆彦さんの民芸品店に永里子さんが訪れ、会話を交わすうちに互いに惹かれあい、あっという間に結婚という話になったという。

「ペルー滞在中は、なんでも自分で判断せなあかんかったでしょう?言葉も分からへんから、右か左かを決めるのも、直感しか頼るものがない。でもあの人とおると安心できたんよね。いろんな緊張感から解放されたんやね」なんでも自分で決めるのはしんどいと永里子さんは言うが、隆彦さんのプロポーズの時も、「この人なら大丈夫」というその直感が働いたに違いない。

藤井永里子さん披露宴の様子

リマ市ヘスス・マリア区にある日秘文化会館で行われた、隆彦さんと永里子さんの披露宴の様子

日本へ一時帰国し両親に結婚の報告をした永里子さんは、2週間でリマにとんぼ返りし、第一子を出産。「先生が『Empuje(いきんで)!』って言うのが分からんかってね。それを付き添ってくれた日系人のおばちゃんが『チカラ、チカラ』って訳すもんやから、ほんまややこしかったわ」と、当時の苦労を笑いながら振り返る。

子宝に恵まれ、1984年には2男1女の母となっていた永里子さん。しかし、ペルーでの暮らしは平穏とは言い難かった。すでに債務危機の状態にあったペルーは、インフレが進行。事業の資金繰りが厳しかったこともあり、隆彦さんは新しい商売を模索していた。

また国内で数年前から始まったセンデロ・ルミノソによるテロ活動は日々過激さを増し、テロから逃れてきた地方出身者がリマに押し寄せ、郊外にスラム街を形成していった。

そんなある日、知人が2人に驚くべきアドバイスをした。それはまさにリマ郊外、サン・フアン・デ・ミラフローレス(SJM)区での商いだった。「あそこは人が溢れているから、食べ物商売ならなんとかなるだろう」というのだ。

当時のSJMは最下層の人々が集まる極貧街。「いくらなんでも、それは有り得ない」と誰もが忌避するような提案だ。しかし永里子さんの直観は、これを好機と見定めた。乳飲み子を抱える親として余裕がなかったとはいえ、かなり大胆な決断である。

SJMに小さな土地を借りた永里子さん夫婦は、中国系ペルー人のコックを雇い、チーファ(ペルー風中華料理)の店を開いた。ただし深刻な経済危機の中で、食材確保には相当苦労したそうだ。

「パラダ(リマ市北部の地名)の市場にはまだ野菜とかあったけど、ほんまに治安の悪いところでねぇ。ちょーっと車から目を離しただけで、ミラーからバンパーまであっという間に盗まれるんよ」白菜一つを買うにも、毎日が真剣勝負だった。

サン・フアン・デ・ミラフローレス区に開店した永里子さん夫婦のチーファは、地域一モダンな店だった

初めは順調だった永里子さんのチーファだが、その人気にあやかろうとする露天商が次々に出現、周囲は屋台だらけになってしまった。「ウチの店は、外から厨房の様子が見えるオープンキッチンになっててね。明るくて、そりゃモダンな造りやったんよ。でもあの人(露天商)ら、店から漏れ出す明かりを使って、ちゃっかり商売するんやから」

そこで屋台では不可能な商売をと考えたのが、鶏の炭火焼屋だった。巨大オーブンと、それを稼働させる電力が必要なこの商売は、さすがの露天商も真似できない。加えて永里子さんは、ハンバーガーと飲み物のセットをわずか1ソルで販売し始めた。鶏料理は高くて手が出ないという層も、しっかり取り込むためだ。

鶏の炭火焼

どんなに価格を抑えても、味に妥協を許さないのが永里子さん。特に手間暇かけて作った特製ソースは大変好評で、1日130個以上は売れたという。もともと料理好きだった永里子さんだが、手間と工夫でさらに美味しくという精神は、この時代に培われたのかもしれない。

しかし、創意工夫を重ねてもハイパーインフレには抗えなかった。1980年代後半のペルーのインフレ率は優に2000%を超え、ビニール袋いっぱいの札束でも、子供にアイスクリーム1つ買ってやれるかどうかという状況。一家の大黒柱である隆彦さんのストレスはピークに達し、2人はとうとう日本へ引き上げる決断をする。

1989年、永里子さん夫婦は家族揃って京都に戻ることにした。

※この投稿は、海外在住メディア広場のコラム「地球はとっても丸い」に2016年2月16日付で掲載された記事を再構成したものです。文中の日時や登場人物等が現在とは異なる場合がありますのでご了承下さい。