第17回 津村光之 – ペルーと日本の懸け橋として生きる 前編

日本と各国の友好親善に多大な貢献をした個人や団体の中で、特に功績が顕著な人に贈られる外務大臣表彰。その平成29年度ペルー表彰者の1人が、リマの大手旅行代理店ミッキーツアー社長の津村光之さん(65歳)だ。

1984年の創業以来、日本とペルーの懸け橋であり続けた津村さんは、日秘商工会議所観光委員会委員長としてペルーの観光促進にも大きく寄与。旅行者泣かせの出入国カードと税務申告書の公式日本語版を、初めてペルー政府に採用させたのも津村さんだ。長年の努力の積み重ねが認められた喜びを、「素直にうれしいですね」と感慨深く一言で表してくれた津村さんに、今日に至る歴史を振り返ってもらった。

津村さんをペルーに招いたのは、リマで旅行業を営んでいた叔父。ペルー日系社会で最も古い旅行代理店の1つだったその会社は、都心の代官山に自社ビルを構えるほど成功していた。しかし自身の子供がスペイン語しか話せなかったため、代官山支店の経営を任せようと甥の津村さんに声をかけたのである。

英語が得意でシカゴ駐在の経験もあった津村さんは、当時勤めていたミシンメーカーを退職したばかりで次の仕事を探していた。26歳の津村さんは1978年8月、旅行業のノウハウを学ぶためにペルーへと旅立った。

食事とスペイン語には苦労したものの、駐在経験で培った度胸を武器に、津村さんはガイドから運転手、雑用係までなんでもこなしていった。ところが、当初約束していた1年の研修期間が過ぎたころ、叔父の娘が日本人と結婚。英語とスペイン語がともに堪能だったその婿が、代官山支店長のポストに就いてしまった。

叔父にはペルーでの日本人客対応を甥にやらせたいという思惑があったのだろう、「約束が違う」と詰め寄る津村さんに、「給料を倍にしてやるから、お前はここに残れ」と命じた。おかげで贅沢をしなければなんとか生活はできたが、リマの日本料理店で大好きな日本酒を楽しむにはあまりにも心もとない。

「足りない部分は、駐在時代の貯金を取り崩してやりくりしました」という津村さん。そうこうしているうち、知人の紹介で知り合った日系2世のカルメンさんと結婚し、1981年には第一子も誕生。妻の実家に助けてもらったり、父には内緒で日本の母から仕送りしてもらう日々が続いた。

1982年のある時、津村さんの父が突然リマに乗り込んできた。仕送りのことを知った父は、「光之はリマで遊ぶため母に無心している」と誤解したのだ。父の怒りを鎮めるため、津村さんは給与明細を見せながらことの顛末を説明した。この件が発端で父と叔父は大げんかになり、津村さん自身も帰国するかどうか悩んだ。

そんな時、日本の兄から「お前は英語ができるんだから、もう少し頑張ってスペイン語をしっかり覚えろ。今は留学していると思え」というアドバイスをもらう。この一件で、給料も多少見直してもらうことができた。旅行業が肌に合っていた津村さんは、引き続き叔父の下で働く道を選んだ。

ところがその2年後に叔父が他界、その息子が後を継いだ。自分を育ててくれた恩を感じていた津村さんは、会社に骨を埋める覚悟でいた。ただリマの私立校の学費は物価に対し極端に高い。子供の将来を考えると今の給料ではさすがに厳しいと、新社長に直談判した。

しかしなかなか応じてもらえず、見かねた妻のカルメンさんに独立を勧められる。近所で自動車修理工場を営んでいた舅も、事務所の2階を貸してくれるという。このままでは家族を養えないとの結論に至り、津村さんは会社を退職し独立。1984年、ミッキーツアーが誕生した。

妻と二人三脚で始めた旅行代理店。1歳と3歳になる子供を事務所に連れて行き、連日仕事に没頭した。日本人在住者の信頼を得ていた津村さんの商売をさらに後押ししたのは、当時の景気だった。折しも日本はバブル直前、すぐにペルー旅行業界の黄金期が到来した。

バブル景気の最も大きな恩恵は、日本の遠洋マグロ漁船だった。世界4大マグロ漁場の1つと言われたペルー沖には、年間およそ200隻に上るマグロ漁船が集結。人手不足から当時の船員はけた外れに高給で、船で3か月かけて帰国させるよりも、日本までのビジネスクラス航空料金の方が安上がりだった。津村さんはその航空券手配を一手に引き受けた。

さらに、日本へと向かう出稼ぎ日系人の航空券手配でも、大きな利益を得た。ただ津村さんは「確かにあれは儲かりましたが、私は2年で手を引きました。だって『どうか航空券を売ってください』ってお客のほうから頭を下げてくるんですよ。あんな商売をしていたらまともな仕事ができなくなる。人間、バカになると思ったんです」。津村さんらしい堅実な判断だ。

約束を守り、仕事を確実にこなすことを心がけてきた津村さんは、日系企業にもかわいがられた。アテンドのため年400回は空港に通い、大勢の日本人を送迎し続けた。その努力が実り、1990年にはヴァリグ・ブラジル航空(当時)から、92年には日本航空からペルー売り上げトップの代理店として表彰される。

これだけを見れば「なんと順風満帆な人生か」と思われるだろうが、それだけでは終わらないのが「ペルー移住物語」の主人公たちだ。津村さんが体験した“テロ時代の恐怖”は、これまでのものとまた一味違う凄みがあった。

※この投稿は、海外在住メディア広場のコラム「地球はとっても丸い」に2017年11月24日付で掲載された記事を再構成したものです。文中の日時や登場人物等が現在とは異なる場合がありますのでご了承下さい。

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