第13回 小島良弘 – 激動の時代を生き抜く秘訣 後編

異国では時々想像できないようなことが起こるものだが、1900年代後半のペルーは中でも群を抜いていた。たとえば1968年誕生のベラスコ政権。政府はポピュリズムに傾倒し、過剰な労働者保護政策に走る。

「盗みを働いた従業員をクビにしても、労働省がすぐ復職命令を出すんですよ。だから1ヶ月くらいで戻ってきてしまうんです」政府が窃盗など大した罪ではないというのだ。「そうやって職場に戻ってきた人はすっかり開き直ってしまって、態度が横柄になるんですね。で、上司に悪態をつく」

「でも上司への悪口は『falta respeto(不敬)』にあたり、解雇理由になるんです。そこですかさず弁護士が調書を書いてね。その場合は復職命令はでません。なのでいつも2回クビにしなければなりませんでした」ペルーの労働法は今も昔も相当労働者寄りだが、さすがに今では窃盗の現行犯ならすぐに解雇できるようになった。

加えて当時はまだ労働組合の力が強く、労使の対立も多かった。カサ・マツシタもストライキで40日間操業停止に追い込まれたことがあるそうだ。「組合を率いていた人物が、素晴らしく頭のいい人でね。交渉がうまく、大変なやり手でした。でも会社としてはやはり困る」

「それで弁護士が『もし彼が邪魔なら殺し屋を雇うが、どうするか』なんて聞いてきてね。もちろん止めましたよ。そういうことが僅かなお金で頼めたんです」なんとも南米らしいエピソードではないか。

ハイパーインフレ時代の苦労や2度にわたる空き巣被害など、さまざまな経験を語ってくれる小島さん。「ペルー人というのはね、頭がいいんです。だから悪いことをする時も、素晴らしい能力を発揮するんですね」と笑うが、それでも決してペルー人の悪口は言わない。

週末のテニスクラブにて

会社からの信用も厚く、小島さんの要請でトンネル窯や土練機、自動生成機といった高価な設備を導入してもらうことができた。当初は日本からの輸入品で対応していた陶土や釉薬も、小島さんはペルーの窯業原料会社と協力しながら自ら国内を歩き回り、ついにはすべての原料を国産で賄うことができるようになった。カサ・マツシタの洋食器は評判になり、コロンビアへも輸出するほどになっていたという。

一方、1980年に始まったセンデロ・ルミノソの武力闘争や政府の財政危機、ゼネスト、ハイパーインフレと、ペルーは治安・経済ともに過酷な時代へと突入していく。そんな中、2人の子供にも恵まれた小島さんはペルー生活の新しい楽しみを見つけた。それがテニスだ。

幼い娘をテニスクラブへ送迎するうちに、自分のほうがすっかりハマってしまったという小島さん。若いころは夫婦そろってよくクラブに通ったそうだ。

ペルーで盛んなスポーツといえばやはりサッカーで、テニスをたしなむのは医者や弁護士、国会議員や軍の幹部といった社会階層上位の人たちが多い。一般庶民は挨拶する機会すらないような人たちとも、ネット越しなら対等になれた。そうした人たちと知り合うことが、どれほど助けになったことか。

時は流れ、小島さんをペルーへと誘った松下社長の逝去に伴い、カサ・マツシタは後継者の手に委ねられた。当初は順調だったものの、中国製の安価な洋食器が輸入されるようになり状況は一変、経営が厳しくなっていく。新しい機械の導入を図ろうとする小島さんの提案も聞き入れてもらえず、会社は徐々に傾きだした。

その頃ちょうど60歳を迎えていた小島さんは、“定年”という扱いで30年務めた職場を去ることになる。「二代目というのはね、親があまりにも偉大だとどうしても委縮してしまうんですよね……」小島さんの胸に、苦い思い出が蘇る。

小島さんが会社を去ったその年に、在ペルー日本大使公邸占拠事件が勃発。日本から押し寄せた報道陣の通訳や案内に、リマ在住邦人が次々と駆り出された。小島さんも大手新聞社の翻訳を手伝い、その成り行きを現場で見守る日々が続いた。

日本人親睦テニス大会は紅白チームに分かれるが、小島さんが参加したチームは10年間全戦全勝だそうだ

事件終了後、知人から声を掛けられたのが今も勤めている旅行代理店だ。窯業技術者から営業職、まったく毛色の違う分野への転職であった。

「セラミックは失敗すると廃棄しかありませんが、旅行業は情報の蓄積だから捨てるものがない。しかもセラミックは廃棄するにもお金がかかりますが、この仕事はたとえ問い合わせだけでも、調べた内容はデータとして残るでしょう?それは素晴らしいことですね」

そんな答えを想像していなかった私には、目から鱗だった。物づくりの現場はそれだけシビアなのだろう。厳しい時代を乗り越えてきた人だからこそ、こうした環境の変化を前向きに受け止められるのかもしれない。

今も仕事の合間にテニスを楽しむ小島さん。10年前に友人と企画した「日本人親睦テニス大会」は昨年の開催で45回を数え、小島さんはそのすべてに参加している。「テニスはいいですよ。若い人は若い人の、年を取ればその年齢にあった遊び方ができます」

妻の妙子さんはもうテニスを止めてしまったが、小島さんの最良のパートナーとして長い間ずっと同じコートに立ち続けてきた。「またもし結婚するなら、妻がいいですねぇ」という小島さん。その言葉に、半世紀にわたる夫妻の歴史と強い絆を感じた。

(終)

※この投稿は、海外在住メディア広場のコラム「地球はとっても丸い」に2017年2月17日付で掲載された記事を再構成したものです。文中の日時や登場人物等が現在とは異なる場合がありますのでご了承下さい。

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