第11回 大森雅人 – 野球と幼稚園、教育者としての道 後編

結婚を機に、突然「生活」という現実を突き付けられた大森さん。だが逃げるわけにはいかない。「いったん野球から足を洗おうって、腹をくくりましたよ」大森さんの本当の意味でのペルー生活が始まった。

そんなある日、妻パトリシアさんの母が「2人で幼稚園を始めたらどうか」と持ち掛けてきた。通関業を営んでいた義母が事務所として借りている家屋の庭がとても広いので、そこを使えばいいという。庭の面積は1000平米、園には十分な大きさだ。

大学で幼児教育を学び、「将来は幼稚園の先生に」と思っていた妻の夢も叶う。日本の両親に頭を下げ、大森さんは開園資金を調達。1990年、リマ市サンイシドロ区にMundo Amigo(ムンド・アミーゴ/世界は友達)幼稚園を開いた。初年度の園児数はわずか12~13人、ささやかなスタートだった。

生活上の余裕はまったくなかったものの、幼稚園の面白さにのめり込んでいく大森さん。「自分は監督ではなく、教育者を目指していたことに気づいた」と明かす。野球監督の時代は、子供の成長より結果を優先してしまうこともあった。しかし教育者は違う。心技体、そのバランスをうまく取り、子供たちの個性を存分に伸ばしていく。

子供への教育を通じて、自らも人として成長していく。それはまさに大森さんが一生の“師”と仰ぐ、佐藤道輔監督が目指した道だった。「いやぁ、まさに天職だと思いましたね」満面の笑みで答えてくれた。

大森さんと妻のパトリシアさん。園の経営と先生への指導は奥様が、内装やセキュリティ、子供たちが楽しめる環境づくりは大森さんが担当している。

開園したての幼稚園は何かと出費が多く、家族を養うにも金がいる。当時はとにかく“稼ぐ”必要があった。開園の翌年、大森さんは日本人駐在員やその家族をターゲットにした土産物屋をオープン。ところが同年のJICA日本人農業技術専門家殺害事件をきっかけに、多くの駐在員があっという間にペルーを離れ帰国してしまう。

顧客を失った土産物屋はたった半年で倒産、在庫処分のため大森さんは日系人と共に民芸品の輸出を始めた。義母の事業の一部を請け負う形で運送業も手掛け、必死で働き続けた。「みんな『大変でしょう?』って言うけどね、大変じゃないんです。だって目的がはっきりしてましたからね。『幼稚園を続けたい』、そのために働くんだから、全然苦じゃなかった」

音楽や踊りのほかにも、子供たちの豊かな感性を育むため、当時は珍しかった温水プールを園内に設置。情操教育に力を入れた大森さん夫婦の姿勢は評判を呼び、ムンド・アミーゴは徐々に拡大していく。開園5年で園児数100人を超えるまで成長し、「あれもしたい、これもしたい」と、大森さんの夢は膨らんでいった。

そんなムンド・アミーゴに、突然存続の危機が訪れる。大家が「土地を売却するから出ていけ」と言い出したのだ。しかし「幼稚園を潰すわけにはいかない」という、大森さんの意志は固かった。当時銀行融資は年率14%の高金利だったが、幸い義母の事業も順調だ。「大丈夫だ、なんとかやっていける・・・・・・」

大森さんは義母と共に、その庭付き一戸建ての購入を決めた。ローンを抱えたとはいえ、「これで自分たちの幼稚園になった」と一安心。その喜びも束の間、最初の試練が大森さんを襲った。1996年12月17日に起きたペルー日本大使公邸占拠事件だ。大使公邸周辺の封鎖エリア内にあったムンド・アミーゴは、休業状態に陥ってしまった。

学期中はもちろん、サマースクールにも大活躍するムンド・アミーゴの温水プール。ペルーで室内温水プールのある幼稚園はまだ珍しい。

事件解決の目途が立たない中従業員を解雇することもできず、卒園式はおろか、新学期の園児募集さえ行えないまま月日だけが過ぎていった。1997年4月22日、ペルー軍特殊部隊の公邸突入で事件は終了したが、その年の新入園児はゼロ。なんとか戻って来てくれた園児もわずか30人と大幅に減り、この事件で園は経営的に相当な打撃を受けた。

銀行ローン返済のため、大森さんは1年間日本へ出稼ぎに行ったが、それでも辛くはなかった。目的が常に明確だったからだ。とはいえ、義母の会社が倒産した時はさすがに打ちのめされたという。義母の負債まで肩代わりする羽目になった大森さんは、再び日本へと向かった。

しかしもう限界だ。いつまで続くのかわからない借金返済のために、これ以上家族が離れて暮らすのはよくない・・・・・・。ペルーに戻った大森さんは、ついに幼稚園を手放す決心をした。

「この巨額の負債を返したら、また一から始めよう。もし自分の“使命”がこの幼稚園にあるなら、きっとなんとかなるだろう」こうして、大森さん夫婦が何よりも大切にしてきたムンド・アミーゴの壁に、「売家」の看板が掲げられた。

ところが一等地にも関わらず、買い手は一向に現れない。売れないものは仕方がないと、大森さんは義母が事務所にしていた住居部分を改造し、ペンション経営に着手。バックパッカー相手で儲からなかったというが、ペンションを始めたおかげで、それまで考えもしなかった新しい仕事に出会うことができた。それがガイド業だ。

宿泊客から案内を頼まれ見様見真似で始めたガイドだが、もともと人にものを教える天分があったのだろう。「大森さんはガイドに向いている」と、知り合いの旅行会社からも多くの依頼が舞い込み、今ではリマの名ガイドとして知られるようになった。

「人種の違いを超えて、世界のみんなと友達になれますように」との願いを込めて創られたムンド・アミーゴのロゴマーク

2016年1月、銀行ローン完済。20年にも及ぶ借金生活に、ついに終止符が打たれた。ガイド業のない日は必ず幼稚園に顔を出し、子供たちが楽しく学べる環境づくりに余念のない大森さん。最近は、卒園児や野球を教えていた子供が大人になり、自分の子供を入園させるという嬉しいケースも増えてきたという。

「子供は本当に可愛い。幼稚園を続けてきて本当によかった」大森さんが我が子のように育み続けたムンド・アミーゴは、今日も子供たちの笑顔で満ち溢れている。

(終)

※この投稿は、海外在住メディア広場のコラム「地球はとっても丸い」に2016年8月25日付で掲載された記事を再構成したものです。文中の日時や登場人物等が現在とは異なる場合がありますのでご了承下さい。