第3回 ただひたすらに石を穿つ 前編

リマを拠点に活動する石彫家、青木通子さん。2003年から幾度もの個展を成功させ、ペルー全国銀のコンクール(2006年)入賞を皮きりに、ペルー北米文化協会主催の全国彫刻コンクール(2009年)では準優勝、ペルー経済研究院彫刻コンクール(2013年)では優勝と、その芸術性が高く評価されている。彼女は美大を卒業したわけでも、誰かに師事したわけでもない。それらの作品はすべて独学で築き上げたものだ。

小柄な彼女が向き合うのは、アラバスターや大理石といった天然石。数トンはある巨大な石に、何十何百という穴をドリルで開けていく。「ガガガ……」両腕から心臓に伝わる強烈な振動。その石の硬さに、面白さと手ごたえを感じると言う。

「柔らかくてしなやかな木は、まるで女性のよう。石は硬く乾いた感触だけど、でも時にはとても脆くて、何かの拍子にパンッと割れてしまうの。その危うさって男性みたいなものよね」と笑った。

厳格な旧家に育ったという通子さん。しかしお嬢様然としていたわけではなく、どちらかと言うとおてんばな子供だったそうだ。弟たちと一緒に川魚やカニを捕ったり、木に登ったり。思い出話をする通子さんのきらきらとした眼は、少女時代の面影を彷彿とさせる。一方で、幼いころから洋服のデザインを手掛けるなど、アーティストとしての片鱗を覗かせていた。

物の色や形、素材が気になるたちで、嫌いなものが混ざっていると、それだけで気になってしかたがなかったという。妥協しない、こびないという彼女の性格は、どうやら生来のものらしい。

そんな通子さんとペルーを繋いだのは、日本で出会ったアンデスの民芸品だった。大量生産された土産物にはない人のぬくもりを感じた通子さんは、この愛らしい小品を生み出すその背景についてもっと深く知りたいと願うようになる。

両親を説得し、輸出業を営む知人を頼って、メキシコ経由でペルーを目指した。メキシコシティから南米大陸の西側を一路南下する飛行機の窓から、通子さんは初めて「ペルー」という国を見た。

「下を見るとね、萌黄色の海とまっすぐの海岸線、それから黄色い砂漠がどこまでも続いていたんです。その乾いた砂漠を見た途端、『自分は、あの砂粒のひとつに過ぎないんだ』って思いました」その“瞬間”のことを、通子さんはこう語る。

通子さんが来秘した1970年代後半の日本は、ちょうど女性が社会に進出し始めたころ。一方、実家は格式を重んじる家柄で、両親は元より、通子さん自身も自分が就職するなどまったく考えたことがなかったそうだ。親の定めた相手と結ばれ、子を産み、家を守っていく。それが普通だし、当然だと思っていた。

しかし、茫洋たる砂漠を眺めるうちに、そうしたしがらみがスゥーと消えていくのを感じた。圧倒的な存在感を放つペルーの自然が、「お前さんが思い描いていた人生なんて、ちっぽけなものさ」と笑った。その声を聞いた瞬間、通子さんを束縛していた何かがいっぺんに吹き飛んだ。

通子さんが足を踏み入れた当時のペルーでは、軍政末期の混沌が未だ国家を支配していた。深刻な経済危機が社会に影を落とし、外出禁止令も頻繁に発令された。続く80年代はテロの時代。アンデス農村部のみならず、都市部までもがテロの脅威にさらされた。

民芸や工芸の勉強をと思いつつ、なかなか自分の足で踏みだせない日々が続いていた通子さん。そんな彼女を見守り、プロポーズしてきたのが、リマで和食料理人として働いていた日本人男性だった。彼と結婚した通子さんは一女をもうけ、妻として、母として忙しく家庭を切り盛りしていたが、やがてあるペルー人女性との出会いが、彼女を大きく変えることになる。

※この投稿は、海外在住メディア広場のコラム「地球はとっても丸い」に2015年6月18日付で掲載された記事を再構成したものです。文中の日時や登場人物等が現在とは異なる場合がありますのでご了承下さい。

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