風に乗って催涙ガス

ずいぶん前になるが、南米某国での話。私はある町の市内観光バスツアーに参加した。人気のコースだと聞いたが私が利用した時はガラガラで、他は2人組の女の子と4人組のおばあちゃん、あとはガイドと運転手というとても静かなグループだった。

市内をざっと回った後、最終目的地である展望台の入り口に到着。ここでバスを降り、坂道を登って丘の頂上へと向かう。おばあちゃんたちは「歩くのが辛い」とバスに残ると言い出した。ここがメインなのに、なんのために参加したのやら。

展望台からの眺望を堪能しバスへと戻る途中で、何やらイヤな臭いが風とともに流れてきた。シンナーのような刺激臭だが、それよりもっときつい。粘膜が刺激されたのだろう、鼻水が出始めた。最初は「どこぞのバカがスプレー式塗料でも使ったのか?」と思ったが、違うことはすぐわかった。鼻の次には眼がチカチカし始め、涙が止めどもなくあふれ出た。ハンカチで擦ってしまったのだろうか、ヒリヒリ痛くてたまらない。

あまりの刺激にだんだん焦ってきた。体験したことのない痛み、なにこれ、もしかして毒ガス?

壊れた蛇口と化した鼻をハンカチで押さえ、とにかく急いで坂を下りた。眼が痛くてまともに開けられない。瞼を半開きにするも、涙で視界が歪んで何度も躓きそうになる。2人組の女の子たちもパニックになって、わんわん叫んでいた。1人は喉をやられたのか、咳がひどい。ペットボトルの水を飲もうとしたその子に、「水は飲まないでー。うがいをしてくださーい」と言うガイド。そんなアドバイスを聞く余裕などないのだろう、水を飲んでは咽ていた。ああ、やっぱり毒ガスなんだ。水を飲んだら毒を体内に取り込むことになっちゃうんだ。ああ、かわいそうに。でも私も声を出せる状態じゃない・・・

ってかガイドよ、なんであんたはそんなに冷静なの?

なんとかバスに戻り、ガイドに新しい水をもらって眼を洗ったり車内のトイレでうがいをしたり。涙と鼻水でドロドロ状態の私たちを眺めながら、おばあちゃんたちは「出なくてよかった」と薄情なコメントを漏らした。

「あれは海軍の訓練で使用された催涙ガスで、今日は“運悪く”風に乗ってあそこまで流れてきたようです」とガイド。そんなことがあるものかと思ったが、google mapを見ると確かにあの展望台から直線距離で1㎞も離れていない場所に海軍基地があった。なんてこと。もしかしてこれはこの町の日常茶飯事?周辺住人はもう慣れっこ?そういやガイドは咳ひとつしていなかった。運悪くどころか、わりと頻繁にあるに違いない。

後遺症はないとあったが、各人の弱いところに強く作用するらしい。眼と瞼への刺激が一番ひどかった私は、翌日瞼が腫れて大変だった。風に乗ってきただけでこれだけの威力があるのだから、まともに食らったら痛みで身動きできないだろう。人生初の催涙ガス。なかなか貴重な経験だった。

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