うち(仮)のハム太郎

旅行中の友達のハムスターを預かっている。名前は「Taro」だが、つい「ハム太郎」と呼んでしまう。夜行性なので夜中に結構な音を立てることがあるが、「おー、生きてるなー」と思うと不快感はない。逆に日中はずっと寝ていて動かないので、心配してしまうほどだ。

私はペットを飼わないことに決めている。うちのアパートが動物禁止なことや、年に何度か家を空ける(旅行に行く)からというのが表向きの理由だが、私はとにかく怠け者なのだ。「今日は引きこもり」と決めたらずっとパジャマのままでPC前に座り込むような人間なので、毎日決まった時間に餌をやり、散歩をさせ、遊んだり構ったりするなんてとても自信がない。クリスマスは飲みまくって、ハム太郎の餌の時間すら遅れてしまった。あぁかわいそうに。だから私には無理だというのだ。

自分のことを棚に上げるつもりはないが、私はペットビジネスはなくすべきと思っている。良き飼い主に出会えるのはほんの一握りで、売れ残った子たちの多くは殺処分される。それは周知の事実なのに、なぜみんなペットショップに行って「選ぶ」のだろう。加えるなら「鼻が低い方が可愛い」「毛足が長い方が美しい」と、その時々の流行に合わせて品種交配する行為も許しがたい。じゃあ何かい?「金髪がいい」「肌が白い方がいい」と人間も改造するのかい?たくさんの犠牲の上に成り立ってるエゴの世界。そもそも私は誰かに「飼われる」なんて、まっぴら御免だ。

そう思ってずっとペットをそばに寄せずに来た私だが、ハム太郎が鼻をひくひくさせたり、トクトクと脈打つ小さな鼓動を感じるだけで、なんと穏やかな気持ちになることか。これが喜怒哀楽をめいいっぱい表現する犬や猫なら、さぞかし愛おしいだろう。まさに家族同然。だから彼らを求めてしまう気持ちを非難するつもりはない。ただ、飼うならとことん愛し続けてほしい。

ペットを飼っている私の周囲の人たちは、素晴らしいことにみなそれぞれのペットをとても大切にしている。捨てられた子を積極的に保護している人もいて、彼女らの懐の深さには心底尊敬している。アメリカ・ニュージャージー州では「ペットショップで販売できるのは保護された動物たちに限定する」という法案を可決したそうだ。なんと素晴らしい!日本もぜひそうならないかな。もちろんペルーもだが…まだ当分無理か。

ハム太郎は今日も元気だ。餌を口いっぱいに含んではプラスチックの細い通路を器用に移動し、お気に入りの場所で吐き出している。見ていて飽きないが、こんな大きな人間がそばにいたらそれはそれでストレスだろうから、控えめに眺める日々。よい機会を与えてくれたお友達に感謝。残り数週間、大切にお世話します。

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