慈善のその先

先日、リマ在住日本人によるバザーが行われた。本帰国する駐在員家族や在住者が集まって、不要なものを安く販売する。不用品と言えども、日本人の持ち物は質がいい。売るほう買うほう双方にメリットがあるし、物を無駄にせずに済むこの習慣はとてもいいと思う。

古着売れ残った衣類で持ち主から寄付されたものは、値段を下げて慈善バザーへ。その中で、シミやほつれがあって値段を下げても売れそうにないものをたくさん譲って貰ったので、貧困地区でボランティアをしている女性に届けてきた。

自分たちがタダでも着ないものを人に譲るなんて傲慢な気もするが、そんなきれい事を言っていられない現実がペルーにはある。洗い替えの服がないからと年中同じ服を着ていたり、靴下がないからと冬でも裸足だったり、聞けば聞くほどため息の出るような話しばかり。「私って偽善者かしら」なんて己に浸っているヒマなどない。「着ないならさっさと渡せよ」という声が聞こえてくる。

その一方で、物をあげることでは何も解決しないことも分かっている。もちろん服がもう一枚あれば寒さをしのげるし、洗濯もできるだろう。でもここの人は「貰うこと」に簡単に慣れてしまう。「自分で何とかしよう」という努力を簡単に止めてしまう。そういう例があまりに多いから、だたあげることの罪と責任を問わずにはいられないのだ。

ペルーの貧困層を支援している個人は多い。でも「その人」がいなくなったら継続できないものも少なくない。特に外国人の場合、ペルー側に後継者を作れないと確実に終わってしまう。ところが「ペルー人に引き渡した途端、個人の蓄財に走るから無理」という声も聞く。じゃあ一体どうすりゃいいんだ?

ここんところ、そんなことを考える機会が多い。とりあえず書くしかないか。